ジョン・ワイス

1.  一筋縄では行かぬ翻訳という仕事

翻訳は簡単な仕事ではありません。たとえある言語を流暢に操れたとしても、その翻訳には困難を伴います。これはもっともなことでしょう。ある言語をうまく話すには、素早いコミュニケーションを心がけ、当惑を克服することが求められますが、うまく翻訳するには、スピードよりも正確さが求められることになるのです。加えて、二つの言語を文法上の詳細に至るまで熟知しておかなくてはなりません。ここで「二つの言語」とは、原文書の言語とこの原文書から翻訳しようとしている言語を指します。これらの言語の一つが母語である場合には、誤りを犯す可能性は天井知らずとなります。なにしろ、誰しもが自分の母語は熟知していると思い込んでいるのですから。

言い換えれば、うまく翻訳するためには、双方の言語を流暢に操れるだけではなく、言語学にもある程度精通していなくてはなりません。これは、マルチリンガルの言語学者だけが翻訳できるということを意味するものではありません。そうでない我々は、もう少し作業を行わなくてはならず、そしてもう少し注意を払わなくてはならないというだけのことなのです。

バージョン1.0.*現在において、LyXには複数言語の取扱説明書の翻訳があります。これらの翻訳には、完成度の面において差があります。私は独語を流暢に(ほとんどの日は)話せるので、das deutsche Übersetzungを見てみることにしました。すると部分によっては、逐語訳に陥っていることを示す証しが見受けられたのです。このようなくだりは、正しいとはいえ、スムーズに読み下すことができず、実のところ正確に「読み取る」ことができません。対照的に他の箇所では、字義通りではありませんが、原文の意図を、原文よりも正確に捉えて翻訳してあるところもあったのです!

最近私は、LyX開発者メーリングリストに送った電子メールの中で、翻訳とは一筋縄では行かぬ作業であるというようなことを述べました。同じ電子メールで、意図せず例を挙げていましたので、これを見てみましょう。以下のような独語文を考えてみてください。

Ich kenne hauptsächlich den akademischen Schreibstil
des germanistischen Fachbereichs.

英語に意訳すると、以下のようになります。

I primarily know the writing style for the academic field
of germanic language, literature, and culture.

一方、逐語訳は以下のようになります。

I know primarily the academic writing style of the Germanistic field of study.

ここで、私は「Germanistic」という単語を説明することができたはずです。そうすれば、代わりに「[...] of the field of study of germanic language, literature, and culture」と書いたことでしょう。いずれにしても、逐語訳は不格好です。この逐語訳は、意訳と全く同じことを意味していますし、文法的にも正しいのです。しかし、誰でもいいので英語を話す人にどちらの方が正しく聞こえるか訊いてみてください。彼女は意訳の方をとるでしょう。

LyXの取扱説明書には、ユーモアがふんだんに盛り込まれています。しかしながら、ユーモアを翻訳することはほとんど不可能に近いことです。自分で飛ばした冗談でさえ、翻訳には耐えないことがあります。私は、共通起源を持つ二つの文化、アメリカ文化とドイツ文化の間に起こったこのような例を知っています[1]

2.  翻訳の森の迷い子

私の母校、Middlebury CollegeとUniversität Mainzは、互いに学術交流を行ってきた長い歴史があります。Middleburyの学生は、一学期ないし一年間の海外留学プログラムの一部としてMainzへの入学を許可されます。講義にまとまった数の「Midd kids」がやってくると、Mainzの教授たちは、彼らのために「tutorium」を課外に設けます。私は「Volkskunde」の分野で行われた、そうした講義に出席していました。

Mainzの教授陣がMidd kidsたちにtutoriumを提供した理由は、それ自身が文化の違いの教訓になっています。どのような講義であれ、アメリカ人たちは静かに座って、講義のノートをとっています。質問があるときには、手を挙げるか、「すみません」と言って教授が答えるのを待っています。講義の最中に学生同士が話をすることは、それが質問であったとしても、無礼なことであると考えられているのです。しかしながら、ドイツの学生たちは、教授がしゃべっている間でも、お互いに小声で話し続け、講義について議論を交わしたりお互いに質問しあったりします。学生間のひそひそ対話は他の人の邪魔になったり、クラス全体に及んだりしない限りは、別に気にも留められないのです。

「Volkskunde」に話を戻しましょう。これは、民間伝承や伝統的衣装・農家建築・家具意匠といったドイツ人の文化人類学を研究する「Germanistic」の一分野です。われわれMid kidsからは5人ほどの学生がこのコースとそのtutoriumにも出席していました。一学期の半分ほどの間、私たちはF博士(無論仮名です)が、どうしてわざわざtutoriumを開講するのか不思議に思っていました。彼はそれを開講することに全く興味がないようであり、私たちにも興味がないようでした。而して学期も半ば頃、彼は突然、直前に言ったのと同じ文章を、非常に激高した様子で、ドイツ語で「わかった?」という意味の言葉を差し挟みながら、繰り返したのです。私たちの頭に突如として光明が訪れました。彼はなんと冗談を言っていたのです。それに気づいたので、私たちは大爆笑し、F博士もほっとしたような笑みを浮かべました。彼はなんと一学期もの間、教室に座ってまじめに彼の言葉を書き写すだけの、一見ユーモアのないアメリカ人たちに(後でわかったことですが)冗談を飛ばし続けていたのです。彼は、他のドイツ人に「これは冗談だけどね」という類の言語的手掛かり(verbal cue)をいろいろ用いていました。しかし、アメリカ人は別の言語的手掛かりを用いるのです。F博士は、短期間の間にアメリカ流の言語的手掛かりの使い方を見つけ出してくれたので、このtutoriumは皆にとってずっと楽しいものとなったのです。

ユーモアの言語的手掛かりを解読することが面と向かって対峙していても難しいのならば、ページの上で化石化している冗談や機知を翻訳することがどうして望めましょうか。翻訳とは、実に一筋縄では行かぬ仕事なのです。

3.  アメリカ的流儀

LyXの取扱説明書の原文を直訳することには、もう一つの問題があります。原文の寄稿者は、アメリカ人がほとんどを占め、残りはオーストラリア人とカナダ人くらいです。これら三カ国には、見知らぬ人に非常に親しげであるという共通した文化的特性があります。実のところ、アメリカ人には、皆の友人になりたいという強い文化的欲求があります。日常的な接触におけるフォーマルさは、良くても尊大か、悪くすれば敵対的であると受け止められる可能性があるのです。読者に呼びかけながら、何らの感情も示さなければ、無味乾燥で退屈だと捉えられてしまいます。

私が文書化プロジェクトに取りかかったとき、退屈でない「非説明書的」説明書を作ろうと思いました。親しい会話のように読者を引き込めると思ったのです。しかしながら、今になって私が気づいたのは、LyXの説明書は、アメリカで行われる親しい会話であるかのように読者を引き込もうとしているということです。あるいはオーストラリアでの会話か、あるいはカナダでの会話かもしれません。おおざっぱに言って、これは英語圏ではさほどの問題とはならないはずではあります。しかしながら、この文調の直接的な逐語訳は適切でないことがあるのです。別の言語を話す国においては、過度に馴れ馴れしいものとして読者を悩ますことになるかもしれません。世界の中には、過度の親しさは、不適切で無礼であると見なされる地域もあるのです。

このように、過度に逐語的な訳という第三の落とし穴があります。文調やニュアンスを字義通りに翻訳すると、別の国では逆の効果をもたらすことがあります。翻訳者は、文調の意図すなわち原著者が狙っていた効果を翻訳すべきであって、そのために彼が使った道具を訳すべきではありません。

4.  前置詞という落とし穴

ほとんどのヨーロッパ言語にあるもう一つの問題、話中に置かれる前置詞というけったいな代物があります。これは、名詞とつなげて、関係や状態を示すために用いられます。フィンランド語その他の言語では、前置詞を使う代わりに名詞の格を変えます。フィンランド語と同じ言語族に属するハンガリー語も、同様であるかもしれません[2]。私のようにヨーロッパ言語を話すものにとっては、前置詞を当然にあるものと考えています。その結果、前置詞は直訳できないものであるということを忘れてしまうのです。

そう、前置詞は直訳できないのです。前置詞の、あるヨーロッパ言語から別のヨーロッパ言語への直接訳はありません。信じられませんか?では「in」を例にとってみましょう。この前置詞は、すべてのヨーロッパ言語においてラテン語由来です。しかしながら、ドイツ語の「in」は、使われ方によって英語では「in」・「from」・「to」に訳されます。英語からフランス語では、「in」は主に「dans」や「á」(場合によっては「a」でしょうか)に訳されます。他の前置詞では、状況はさらに悪くなることがあります。

手元の自国語-英語辞典を手にとって、自国語の適当な前置詞を引いてみてください。たいていの場合には、その前置詞は複数の英語に訳されているはずです。そのうち一つを取り上げて、今度は英語側の辞書を引いてみてください。その自国語訳を一つ拾ってください。おそらく複数の訳があるはずです。それから元の辞書に戻ってください。この手順を繰り返すと、おそらく辞書の中をあちこちと歩き回ることになるはずです[3]

翻訳とは、実に一筋縄では行かぬ仕事です。

5.  慣用句の喜び

どの言語でも、人類は慣用句を用います。どの言語でも、これら慣用句には共通の性質があります。適当な慣用句を、構成している単語に分解し、各単語の意味を引いてみてください。すると、それらの意味から元の慣用句の意味を引き出すことはできないのです。言い換えれば、慣用句を単語毎に解釈することには、いかなる意味もないのです。英語の慣用句を翻訳するための特別な辞書がないならば、慣用句を翻訳する望みはありません。

面白いのでちょっと慣用句を見てみましょう。

もしアメリカ人が誰かを指して「dumber than a sack of hammers(巾着袋よりも静か)」と嘆いたとしても、その意味するところはどうみても明らかです。しかし、「knock」という動詞を人に対して用いたときはどうでしょうか。イギリス人同士で「I'll knock you up around 7:30(7時半頃に君をknockするよ)」と言えば、彼がもう一人のアパートを7時半に訪れるつもりであることを示しています。しかしアメリカで、学生同士が「Did you hear? The class president knocked up his girlfriend(聞いたかい?級長がガールフレンドをknock upしたらしいよ)」と話していたとすれば、誰かが慌てて—そして意図しないうちに—親になろうとしているということです。もしドイツ人が「Ich glaub' mich knutscht ein Elch(直訳:I believe an elk is smooching me)」といえば—ええっと、ご自分でどうぞ。

6.  注釈

[1]
アメリカ人でない皆さんは信じないかもしれませんが、本当なのです。ドイツからアメリカに向けては、建国当初から安定的な量のかなりの移民が続いてきました。200年前、我が国の建国当初には、ペンシルバニア州はドイツ語を公用語とすることを真剣に検討していたのです。
[2]
ジョン・ワイスによる注釈:これは私は自信がありません。誰か確認できる人はいませんか。
[3]
ジョン・ワイスによる注釈:これは一度ならず、ふとこのようなことをしてしまった私の経験によるものです。